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zoom RSS デモをすることがそんなに立派なことなのか?小浜逸郎氏のデモ批判論紹介

<<   作成日時 : 2015/07/30 21:49   >>

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 文芸評論家高橋源一郎が「ぼくらの民主主義なんだぜ」 (朝日新書)という本を書いています。全部は読んでいません。立ち読み、パラパラです。でもその程度でも中身がわかるほど通りいっぺんですから。文芸評論家が政治や社会について発言すると何故こんなにも恥ずかしいものが出来上がるのでしょうか。西尾幹二や富岡幸一郎という人も文芸評論家ですが、立派でまともです。違いは高橋源一郎は左翼だからでしょう。

 読んでいてどうしようもない不快感を覚えるのですが、この不快感はどこから来るのか。一つは大衆というものの厄介さについて余りにナイーブというか意図的にか考えようとしないことから来るのだと思います。もう一つは、そのことに関連しますが、民主主義を直接民主主義が理想だと捉えていることです。だから、デモなんかをものすごく崇めるんですね。デモ参加者は民主主義をわかっているというか体現しているかのようにいいます

 先日このブログに「SEALDsとかいう胡散臭い組織が持てはやされているらしい」という題で書きましたが、そこで朝日新聞天声人語を一部引用しましたが、後半は省略しました。
 ここでその続きを引用します。

天声人語
 …抗議行動への参加者は増え続ける。勝手に決めるな。それは、決めるのは私たち、主権者は私たちだという叫びである。投票だけが国民の仕事ではない。時の政権に常に目を光らせ、必要なら声を上げる。その声を軽んじる現政権に対し、「国民なめんな」のコールが起こるのは当然だろう。
 哲学者の柄谷行人さんは以前、3・11後の反原発デモに触れ、「人がデモをする社会」という文章を書いた。人々が主権者である社会は、選挙によってではなく、デモによってもたらされる、と。その流れは枯れることなく今に続く。
国会前に立ちながら、目配せという言葉をふと思い浮かべた。「危ないね」という思いを伝え合う、それぞれの目配せ。このさりげない連帯は強まりこそすれ、と感じる。」(引用終り)

 ここでもデモ礼賛。柄谷行人の「人がデモをする社会」という文に触れ、「人々が主権者である社会は、選挙によってではなく、デモによってもたらされる」と書き、代議制民主主義を否定し、デモを革命か何かの手段、デモなくしては民主主義はないかのように、朝日新聞は扇動するのです。高橋源一郎だけでなく、左翼知識人はみな仲間なのですね。
 そういわれてみると普通の人はそうかもしれないと思ってしまいます。「やはり民主主義は行動だよね」と単純に。そう私たちは民主主義のことを勉強したことなんてないのです。だから扇動者に簡単に洗脳されてしまいます。

 私たちは左翼というかデモ礼賛者に対抗する理論を持つべきなんです。でもそれはきちんとした批評家の論をよく読むことで達成できます。2年半も前ですが、評論家小浜逸郎氏が「反原発知識人コミコミ批判」と題して、デモ批判論を書いています。長いのですが、とても参考になります。柄谷行人批判も書かれています。痛快です。左翼の馬鹿げた理屈に騙されないためにもぜひ読んで下さい。

小浜逸郎氏・反原発知識人コミコミ批判 2013・2・11

 昨年(2012年)10月、一昨年から昨年夏場にかけてのデモの盛り上がり気運を記録に残そうと、一冊の本が出版されました。『脱原発とデモ――そして、民主主義』(筑摩書房)。
執筆者は24人(一人は団体名)。そのなかに、日頃目配りの悪い私でさえ知っている「錚々たる」知識人・芸能人の名前がありました。知らない人のことは興味ないので、知っている人の名前だけを挙げておきます。
 瀬戸内寂聴(作家)・鎌田慧(ルポライター)・柄谷行人(思想家)・落合恵子(作家)・小出裕章(京大原子炉実験所助教)・坂本龍一(音楽家)・田中優子(江戸学研究者)・飯田哲也(環境エネルギー政策研究所長)・宮台真司(社会学者)・いとうせいこう(作家)・小熊英二(歴史社会学者)・鶴見済(ライター)・山本太郎(俳優) 以上13名。

 一言で言うと、まあ、この人たち、なんてナイーブ(バカという意味とほぼ同じ)なんだろう!、というため息です。下品なたとえで恐縮ですが、いくつになるまで処女やってるんだろう! という印象ですね。目を覆いたくなるようなデジャヴュ(既視感)です。

 さてこれから、この人たちの発言からいくつかを選び出して、それらがいかにひどいかを批判していきますが、それだけでは終わりません。一般にデモという集団行動がどういう意味をもち、どんな限界をもっているかという組織論的な問題にも触れたいと思います。また、知識人がデモに参加したり抗議声明をしたりすることの意味について考えを述べるつもりですし、さらに、そもそも私自身が、現時点で原発問題をどう捉えているかをはっきりさせたいと思います。
(中略)

 少し先輩風を吹かせます。今回のデモ騒ぎが、「あらゆる意味で考えられないこと」なんてことはないんですよ。小熊さんは戦後思想史の専門家なのだから、まさか知らないわけはありますまい。安保闘争の時にも、国会前を数十日にわたって数万人規模のデモが取り巻きましたが、自然承認がなされるやいなや、潮が引くように一般のデモ参加者はたちまち消滅してしまいました。デモがピークのとき、いまのあなたと同じように、かの有名な丸山眞男が興奮して、普通の市民が政府にノーを突きつけたことは戦後初めてで、これは新しい社会を切り開く画期的なことだと騒ぎ立てました。もともと彼は、政治学者のくせに、なぜ自分が安保改定に反対なのか、一度も理論的に説明したことがない。しかもその後彼は、市民運動の盛り上がりに対する自分の期待が的外れだったことをきちんと総括したことがない。小熊さん、あなたはぜひやってくださいね。やりっこないと思うけど。

 老婆心ながら、問題のポイントを指示しておきます。なぜ一部の一般市民というのは、あるときはインテリがびっくりするほどシングル・イシューに対して熱気を示すのに、状況が変わると、すーっと日常に戻ってしまうのか。この問題を真剣に考えなければ、いくらオタク知識を延々と披歴しても、思想的にはオシマイです。
(中略)

江戸学研究者・田中優子氏。
田中氏はくだんの本の中で、自分の専門である近世史研究を活かして、江戸時代の一揆についていろいろと薀蓄を垂れております。それはそれで勉強にもなり、たいへん結構なことなのですが、最後の数行がいけません。

 今やたいていの場合、運動は組織の拡大、継続、社会的承認、自己表現、時には選挙の票が目的となっている。それでもデモは重要な示威行動である。デモを少しでもテロル(恐怖)を生み出す一揆に近づける必要がある。明るく楽しく学生運動の模倣をする学生たちが発生しているように、デモが本来のデモの明るく楽しい模倣をするだけであったら、デモの存在意味はない。デモは怒りの表現であり、求めずにはいられない要求をもっているのだから、明るく楽しいはずがないのだ。理不尽を見つめ個々の利害を超えることからしか、一揆は始まらない。

 要するに、反原発デモの趣旨を、その適否についての考えは棚上げにしたまま全肯定した上で、かつての百姓一揆のようにもっと権力者を脅かすテロルの要素を織り込んで、命を懸けて激しくぶつかれ、とアジっているわけです。
 バブル時代に女性江戸学者として華やかに登場し、学界の三大美女などとうたわれた田中さん、何を血迷ったか、じつは恐ろしいことを言う人だったのですね。「三大美女」かどうかはともかく、虫も殺さぬ優しげな容貌をしながら、心の中では過激なことを考えている女性というのは、けっこういるものです。男性諸君、気をつけましょうね。

 私は全共闘世代です。大したことをやったわけではありませんが、わりと早い時期に転向しました。理由はいろいろとありますが、その重要な一つに、あの運動が大衆的支持を失うのに並行してどんどん過激化していき、その末路が連合赤軍事件というおぞましいリンチ殺人に帰結したという経過を同時代者として見たことが挙げられます。あの事件は日本の政治構造には何の影響も与えないただの凄惨な私的殺人ゲームでした。ちなみにあの事件の最も先鋭的な遂行者は女性でした。

江戸の一揆といえば、二百年から三百年も前です。近代化が達成される以前の農村は、しばしば飢饉や重税に苦しみ、命をかけざるを得ないぎりぎりのところまで追いつめられた背景をもつ場合がほとんどでしょう。しかし、私たちには、それについての歴史的な知識はあっても、大方のところ、その切実感を喪失しています。それは、多くの人がそこそこ食っていけるようになったので、権力者にテロルを感じさせるだけのモチベーションが低下したからです。それはそれでいいことです。
 ところで田中さん、歴史学を専門とする知識人として、今回の原発デモのような問題に対して提供すべき知恵とは何でしょうか。「個々の利害を超え」た一揆の勧めなのですか。
 「個々の利害を超え」ることを何かすばらしいことのように勘違いしているようですが、この理念のうちには、そのうるわしい見かけの陰に、必ず個々の訴えを政治的に利用して全体主義的な権力に組織化していこうとする恐ろしい力が潜んでいるものなのです。連合赤軍などは、まだまだちゃちなもの、現在の北朝鮮、カンボジアのクメール・ルージュ、中国の文化大革命、ソビエト・ロシアのスターリニズム、ドイツのナチズム、フランス革命期の恐怖(テロル)政治等々、歴史に例をとれば、枚挙にいとまがないほどです。そういう教訓をきちんと伝えるのが、歴史家の務めではないでしょうか。

 反原発デモが「明るく楽しく」盛り上がり、短期間に「明るく楽しく」ポシャって行きつつあるのには、それ相応の社会的な必然性があるので、ヘンに過激化しないのはよいことなのだと判断できます。それを田中氏は、自分が責任を負う気もないくせに、なんと、江戸期という、時間的にも状況的にも遠く隔たった時代の知識をそのまま現在に接ぎ木して、デモがテロルを呼び起こすべき過激な一揆に発展することを扇動しているのですね。あな、恐ろしや、というよりも、正直なところ、こういう専門知識人特有の鈍感ぶり、ノーテンキぶり、無責任ぶりにはほとほと嫌気がさします。

 ここで、デモという行動の意味、その可能性と限界について、私見を述べておきましょう。
少々、思想家の西部邁氏流をまねますと、デモの原語であるdemonstrationとは、もともとは、神の前で自分が正しいことを実証して見せるという意味です。ですから、証明もできない主張や信念を、集団の力を借りてただ訴える(示威行動)というのは、本来は邪道なのです。それが近代になって、いつの間にか、民衆が、少数では権力を行使できず主張を聞いてもらえないので、とにかく数の力で対抗するという行動を意味するように変質してしまったのですね。
 デモはこのように、あるイシューをめぐって構成された臨時の圧力団体ですから、自分たちの主張が正しいかどうかはどうでもよくて、訴えの共通点さえ集約できれば、あとはみんなで行動しましょうということになります。この行動は、その様式がお祭りととてもよく似ています。どんな点が似ているか、列挙してみましょう。

@情緒の共有による、集団的な一体感を求める。
Aむずかしい理屈は邪魔。
Bにぎわえばにぎわうほど、参加者の高揚感が増大する。
C一体感を象徴するシンボルが必要(プラカード、単純なスローガン、色つきヘルメット、神輿、山車、注連縄、巨大な陽物など)。
D同一行動をとるための、リズムや調子をもつ。
E体を動かすので、日頃のストレスを発散できる。
F「祭りの後」が必ずやってくる。

 いかがでしょうか。どの項目を見ても、その問題について相手と静かに討議したり、ひとりでじっくり考えるという行為とは対極にあることがお分かりでしょう。
 これは、反原発デモに限らず、反戦デモでも、反核デモでも、反日デモでもみな同じです。つまり、理性的な言葉によって相手を説得しようという試みをはじめから放棄しているわけです。同時に、もしかしたら自分の考えと行動は間違っているかもしれないという自己懐疑の可能性は、あらかじめ禁じ手になってしまっています。
 誰が見ても理不尽なことがまかり通っていると感じられる場合、それを覆すための方法はいくつか考えられますが、デモは、たかだかそのうちのほんのひとつの、しかも粘り強く続けることが難しい手段にすぎません。続けることが難しいのは、人の思いや都合がさまざまであること、場と時間を共有しないと成立しないこと、などによります。

 権力を手中にしていない一般民衆が、時にこうした手段に訴えるその気持ちはわからないではありません。もちろん有効な結果を生み出すこともあるでしょう。やりたい人は、なるべく暴動にならないように気をつけながら、大いにやったらよろしい。ですが問題は、インテリとか知識人とか呼ばれる人たちが、この非理性的な行動様式の盛り上がりに圧倒されて、彼らの本来の役割を忘れがちになり、時には悪乗りしてただの扇動者になってしまうことです。本来の役割とは、当の問題についてじっくり考えた上で、時には専門知を駆使しながら、なぜある主張が正しいのかについてきちんとした論理を提供することです。原義としてのdemonstrationを行うということですね。今まで取り上げてきた人たちも、一様に、この役割を怠っています。

 戦後の多くの反体制的なインテリ、左翼知識人、リベラリストたちは、一般民衆に片思いをしてきましたから、デモの盛り上がりなどがあると、すぐに、これは自分の理想に近い状態が生まれたに違いない、と勘違いしてしまうのですね。この70年近く続いたインテリたちの慣性は、いまだに根強く残留していて、それが今回の反原発デモにもそのまま踏襲されている、と私は言いたいわけです。

京大原子炉実験所助教・小出裕章氏の発言を見てみましょう。
この人は肩書から推して、原子力発電の現場でその問題点をいろいろ見てきた人のようで、その見解はそれとして尊重すべきなのでしょう。しかしこと政治問題がからむとなると、やはり専門知識人のノーテンキぶりを遺憾なく発揮しています。2012年6月15日に次のようなコメントを発しています。

「原子力は、私を含め個人の力では到底防ぐことができない巨大な力で進められてきました。しかし、「民主主義」を実現できるほどに一人ひとりが自立できるなら、原子力など簡単に廃絶できると私は思います。」

原発をめぐる知の現場で無力感を感じてきたはずなのに、どうしてこんな大風呂敷を広げられるのでしょうね。キーワード(マジックワードといったほうが適切でしょうか)は、「民主主義」。
いったいに、この本で発言している人たちは、「民主主義」という言葉を、反原発デモに集まってきた人たちの意思を直接政治に反映させて、国家権力のたくらみを封じ込む営み、というように解釈しているようです。なんとも粗雑な、また手前勝手な「民主主義」解釈ですね。以前私は、社会学者の橋爪大三郎氏が直接民主主義を理想としている、その幼稚な思想を批判しましたが、彼の考え方とよく似ています。

「民主主義」――この手垢だらけの便利な、そしてそれゆえに誰もがそれぞれ違った意味で葵の印籠のように振りかざす言葉。そして、この言葉を絶対のイデオロギーのように後生大事にしてきた戦後という時代。
私たちは、いまさらこの言葉を否定し切ることなどできないでしょう。おそらく私たちにできるのは、この言葉が使われているそのつどの文脈をよく理解して、その使われ方に対する懐疑を失うことなく、背後にどんな思想が隠されているかを見通すこと。また、国家と民主主義とを二律背反的な対立命題と考えないこと、さらに、国際社会における他の政治制度との比較相対化を怠らずに、政治制度としての民主主義国家のあるべき姿をたえず模索し、鍛え直すこと。

 ところで小出氏のように「『民主主義』を実現できるほどに一人ひとりが自立できるなら」などというできもしない安っぽいスローガンを掲げるのは、もういい加減にやめてもらいたいものです。はじめにデジャヴュと申し上げましたが、こういう悪しきロマン主義的なスローガンは、丸山眞男、鶴見俊輔氏、吉本隆明などの戦後思想家でもうたくさんです。げっぷが出ます。
 なんですか。一人ひとりが自立できるって。民衆のそれぞれが固有の考えと意思を持って三々五々、政治に参加するんですか。こんなに複雑高度な社会になって、個人化が進み、みんながバラバラな欲求や考えをもつ時代に、それらのおそろしく多様な利害や意思を、だれがどうまとめるんですか。原子力を廃絶するという決断を下すのは誰ですか。権力はいらないんですか。間接民主制を廃止するんですか。国家を解体して、それぞれが勝手放題にふるまうんですか。それとも、社会秩序を壊すのが面白いだけなんですか。

 こういうのを政治用語では、アナーキズムと言います。17世紀の思想家、ホッブズによってそのダメさ加減はとっくに指摘され克服されています。民主主義という言葉を使う人は、その適用限界をよくわきまえて使ってください。そのためにも中学・高校レベルでいいですから、せめて基礎的な勉強をしてください。それにしてもこの人たちは、いっぱし知識人を張っていながら、デモに集まった群衆の数に狂喜するだけで、どうしてこういう当たり前のことについてちゃんと考えようとしないんだろう。

 さて次に、こういう問題については人一倍過敏に反応する文芸評論家の柄谷行人氏を取り上げましょう。
 この人の言動を私は昔からある程度よく知っていて、その小難しい言説がいかに「東大生だまし」のインチキであるかを批判したことがあります。しかし、今回は、その点には触れません。本人がお年を召して、もう難しいことを書くのがいやになったと、くだんの本で告白していますからね。それは日本の文学界、思想界にとって良いことです。もはや深追いはしますまい。
柄谷氏は、次のようなバカなことを言っております。

「日本だけではない。氏族社会の段階から、どんな社会にも、寄り合いのようなものがある。それが歴史的に民会や議会に転じたのである。しかし、現在の議会(代表制議会)には、寄り合いにあった、直接民主主義的な要素は失われている。それを取り戻すにはどうすべきか。アセンブリしかないのである。
なぜ人々がデモ(アセンブリ)に来るのか。代表制議会が機能不全だから、ということは確かである。しかし、デモ〈アセンブリ〉はたんにそれを補うための手段ではない。それは、代表制民主主義とは異なる直接民主主義の可能性を開示するものだ。」


  同じ指摘の繰り返しになりますが、これが一時は日本の文壇で盛名を馳せた文芸批評家のなれの果てです。そこらの生意気な高校生レベルのことしか言えていない。要するに、村の寄り合いが直接民主主義の原点であり、それこそが現在のデモや集会につながるのだから、デモや集会こそ、理想的な政治形態の雛形だと言いたいわけです。
 デモという集団形態の本質的な脆弱さについては先ほど分析しましたが、ここで柄谷氏が言っていることは、ややもすると多くの人々にとって当たり前のように受け取られがちなので、しつこいようですが、その根本的な誤り(想像力の欠落)を正しておきます。

 寄り合いというのは、小さな共同社会(ムラ)の中で、そのムラ固有の問題を解決するために、みんなで集まって話し合おうという組織ですね。たしかにそういう組織はあったでしょう。
しかし、第一に、人類史のどの段階でも、他とまったくかかわりのない孤立したムラというような実験室みたいな共同社会は、ほとんど存在したためしがありません。あるムラは、必ず周囲のムラと政治的・経済的に交流しているし、また、もっと上位の共同体からの規制を受けています。なかには実体的に上位の共同体が存在しない場合もあるでしょうが、そういう場合には、必ずムラどうしで共通に自分たちを拘束する超越的な象徴秩序(≒かみさま)を作り出します。だから、ある一つのムラが仮に全員参加の寄り合いで水平的な「仲良し集団」を形成しているように見えたとしても、それは事の一面を示すにすぎず、それだけで自己完結したユートピアを作ることなどまずあり得ないのです。そういう共同体は、近代社会の複雑な秩序から疎外されたり、その中でつきあうことに疲れてしまったりした柄谷氏のようなインテリの頭の中にしか存在しません。
第二に、寄り合いがいかに全員参加の「仲良し集団」だったとしても、その内部でことを最終的に決断していくのは、なんらかの権威筋です。長老であったり、長者であったり、政治能力のすぐれた者として承認された人であったり、世襲の権力者であったり、要するにリーダーとしてふさわしいとみなされている人または家です。
日本のサヨクインテリは、しつこく「みんなで決める直接民主主義」なる理想郷がかつてどこかに存在し、それが未来において実現可能であるかのように夢想します。昔、空想的社会主義者が歴史のはるかかなたに原始共産制を夢想したのと同じです。しかしそんな夢から一刻も早く醒めてほしいものです。
集団における意思決定が常に一定の求心力を必要とする(主役、脇役、端役がいる、つまり権力場が存在する)という原理が、どの共同社会でもはたらいていることは、なんの利害関係もない趣味のサークルでさえ、一定人数になれば理事、幹事が要請されるという事実を見ても明らかです。いわんや、錯綜する人間関係のすべてに何らかの決断を下していかなくてはならない政治社会においてをや。

柄谷氏のような思考をする直接民主主義信奉者は後を絶ちませんが、この人たちの致命的な欠陥は二つあります。ひとつは、「木を見て森を見ず」、要するに、全体の関係に視野が及ばずに、ある一部だけを見て、それが何か普遍的な可能性を切り開くものだと勘違いしてしまう点です。もうひとつは、福澤諭吉の言う「天賦の不平等」、つまり「天賦の身体に大小強弱あり、心の働にも亦大小強弱なかる可らず」という不変の人間的現実に目を塞ごうとする点です。そういう意味で、直接民主主義信奉者は、不治の人間音痴なのです。ぼんやりとしか物事を考えない人ならばそれでもかまいませんが、一家をなした文芸評論家がそれでは困ります。

 柄谷氏は、かつて湾岸戦争の折にも、日本文壇特有の空想的平和主義をまき散らした前科があります。また、地域貨幣を流通させるNAMとかいう「新しき村」まがいの地域共同体を夢想して実践に移しましたが、見事に失敗しました。この本でもそのことを自慢げに語っていますが、失敗から何も学ぼうとしていません。世界中グローバリゼーションでつながってしまっているこの人類社会で、自己完結的な地域経済など成り立つはずがないのは火を見るより明らかです。火星にでも行って実験してみたらよいのです。ひとりで空想に耽っているだけなら、まだ可愛げがあります。しかし、次の引用を見ると、なぜ柄谷氏がこういう空想をもてあそぶのか、その体質的欠陥がよく見えてきます。

「もう一つは、世界経済がいまどんどん悪化しているでしょう。アメリカに始まり、最近はヨーロッパで目立っている。簡単にいえば、バブルがはじけたんですよ。日本人がここ十何年間に経験したことを、今世界中で経験しているわけです。その点で、日本人のバブル崩壊後の長い停滞の経験は、重要なものだよ(笑)。日本では、若い人たちが現状を受け入れるようになってきた。つまり、もう一度豊かな生活を取り返す、企業を発展させる、いい大学に行く、というような中産階級の夢を捨ててしまった。日本が経済的に停滞することは確かですが、僕は悲観的にならない。結構、楽しいんですよ(笑)。」

これは許しがたい発言です。若い人たちがこの不況の中でどんなにつらい目にあってきたか、失業者のみならず、劣悪な条件に甘んじてきた派遣やバイトなどの非正規雇用者たち。小さい子どもを抱えながら保育園代もままならず働きづけの女性ワーキング・プア―、手当なしの非自発的な残業でこき使われてきた正規社員たち。日本の産業の基幹である中小企業の相次ぐ閉鎖や倒産、そういう苦境の中でも何とか明るく生きようとしているけなげな若者たち。だれでも見えるこうした状況を一顧だにせず、「僕は悲観的にならない。結構、楽しいんですよ(笑)」とは何事か。悲観的にならなくて結構楽しいのは、あんたが金に困ったことがないからでしょう。いまどき清貧の思想などを偉そうに説いて不況を正当化するような、この根っからのぼんぼん野郎を、一度貧困の中に叩き落としてみたいものです。

と、共産党的なことを言ってしまいましたが、柄谷氏は結局、日本文壇で甘やかされた永遠のぼんぼんなのですね。だから、勝手な言辞を垂れ流しつづけ、ボケかかったいまもなお老害をまき散らしているという次第です。(後略)」
(引用終り)

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